中田英寿&財前宣之 U-17黄金コンビ18年ぶりの再結成へ

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チャリティマッチ出場予定の財前選手(2009年12月、タイ・デビュー戦時の画像)

東日本大震災、今年4月タイ南部で起きた洪水の復興支援を目的として、タイ・バンコク・スパチャラサイスタジアムでサッカーのチャリティーマッチ「TAKE ACTION in THAILAND」が開催される

中田英寿氏率いる「TAKE ACTION F.C.」(STARS JAPAN)と、タイ代表チーム、元タイ代表レジェンドで構成される「THAILAND STARS」(LEAGUE STARS)の対戦です。

「TAKE ACTION F.C.」の出場メンバーは以下の通り(参照元:TAKE ACTION IN THAILAND)。

1. HIDETOSHI NAKATA
 2. MASAKIYO MAEZONO
 3. EDGAR DAVIDS
 4. MASAO  KIBA
 5. JUN KOJI
 6. ERIKSON NOGUCHI PINTO
 7. YOSHIAKI  MARUYAMA
 8. TAKAHIRO  KAWAMURA 
9. DAIKI HIGUCHI
10. HIROMICHI  KATANO
11. HIROYUKI  YAMAMOTO
12. TAKUYA  ITO
13. KIMIAKI  KINOMURA
14. KUNIHIKO TAKIZAWA 
15. NOBUYUKI   ZAIZEN
16. KAZUTO KUSHIDA
17. KAZUYA  MYODO
18. TAKAHIRO KAWAMURA
19. RYOHEI  MEADA
20. HIRONORI  SARUTA
21. KEISUKE  MYODO
22. YUSUKE SATO
23. YOSHIO  KATO

中田、前園に加え、元オランダ代表のダービッツ、そしてタイ・プレミアリーグでプレーする財前宣之、滝沢邦彦など、90年代サッカーシーンの盛り上がりぶりをリアルタイムで体験したオッサン世代サッカーファンにとってはたまらないメンツですね。

中でも注目は中田と財前、1993年U-17日本代表の“黄金コンビ”18年ぶりの再結成でしょう。

1993年のU-17世界大会のために結成されたU-17日本代表は、Jリーグ開幕、さらに自国開催ということもあり、これまでの感覚では考えられないくらいの入念な準備と強化期間を経て結成された、日本のサッカー新時代の幕開けを象徴するチームでした。

実際、U-17チームの強化は成功し、本大会では予選リーグ突破、ベスト8(しかもベスト8での対戦相手は優勝国ナイジェリア)という結果に終わり、兄貴分のU-23、A代表より一足先に世界のトップレベルを肌で知ることになります。

今の感覚で言えば、U-17ベスト8と言われても、「ふーん」という感じかも知れませんが、当時の日本といえばW杯に出たこともなければ、オリンピックさえも長年出場から遠ざかっていたわけで、U-17とはいえ、世界レベルの大会で予選リーグを突破するなんて考えられないことでした。

このチームは結果を出すだけでなく、“人を育てる”という若年層代表チームの真の目的も達成しています。当時のメンバー表を見てみると、中田英寿、宮本恒靖、松田直樹、戸田和幸という2002年W杯日本大会の主力メンバーが名を連ねていることがわかります。

しかし93年U-17のエースは、現在タイ・プレミアリーグでプレーする財前宣之でした。

テクニシャンが揃う読売ユースの中でもひときわ目立つ存在であった彼は、この後、イタリアのラツィオに留学。トップチームの紅白戦にも出場し、後にACミラン、イタリア代表の守備の要となるネスタを相手にまったくボールに触らせないプレーを披露。徐々に頭角を現します。ついには当時ラツィオの“番長”であり、精神的支柱であったイタリア代表FWシニョーリが監督に「ザイゼンを試合に出してやれ」と直談判する前代未聞の事態に発展します(今でこそ十代の日本人選手が海外で活躍することは十分あり得ることですが、何せ当時はW杯に出場したこともない国から来た“留学生”…ですからね。あり得ないことです)。

その後はアジアから唯一世界選抜チームに選出され出場、スペインのログロニェスに移籍と、順調すぎるほど順調なプロ生活を送っていた財前ですが、彼はここで靭帯断裂という大ケガをしてしまいます。

ケガで傷心の財前は帰国。Jリーグで活躍するものの、結局、この大ケガが原因で代表レベル、世界レベルでの活躍を見せることはありませんでした。そして彼は2009年の年末、プレーする場所を求めてタイにやってきます。

ちなみに、財前は私がタイから日本に本帰国する直前にタイでデビューしており、しかも私は彼のデビュー戦を生観戦したので、特別に思い入れがあります。

もしかしたら彼のタイ・デビュー戦を生観戦した唯一の日本人かも知れません。

一方の中田の方は、活躍は皆さんご存じの通りだと思うので、本題とはあまり関係ない話を少しします。

自分は出版社勤務時代にひょんなことから知り合いになった李国秀氏(元ヴェルディ川崎総監督、元桐蔭学園監督)の著書を担当したこともあって、サッカー界の内部をほんの少しだけかじっているのですが、あまり世間で知られていない話を1つ披露すると、中田の中学時代のサッカー部の監督は、何を隠そう李国秀氏の全日空選手兼監督時代(80年代前半くらい)の教え子でもあるのです。

90年代の高校サッカーに革命を起こし、ヴェルディ川崎総監督時代も黄金期のメンバーなしで2位になったこともある李国秀氏ですが、彼のサッカー指導には1つの信念があって、とにかくエレガントさ、そしてキックの精度を選手に求めています。そんな李氏の指導の甲斐あってか、桐蔭学園出身の選手をじっくり見ていると、みんなそれぞれキックのフォームとか、ボールの持ち方、寄り方が似ているのが分かると思います。

選手としての中田は桐蔭学園出身選手みたいなエレガントな丸っこいプレーは少ないのですが、代表チームでは中盤真ん中からサイドへアウトサイドでロングパスを出すプレーを得意としており、そのときのフォームが桐蔭の選手っぽくて、さすが李氏の“教え子の教え子”だなあ、と思ったりしたものです。

ちなみに中田は高校進学時に李氏率いる桐蔭学園にスカウトされています。当時の桐蔭学園は関西や静岡からも優秀選手をスカウトしていましたから、おそらく教え子とのパイプを通じて、中田の存在を知って目を付けたのでしょう。実際、中田本人も乗り気だったという噂もあるのですが、結局、地元山梨を離れ寮生活になってしまうため、偏食だった中田には無理だろうとの母親の反対があって、地元韮崎高校

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